作業日誌0509/10

2012/01/25

作業日誌が全然追いつかない。
とりあえず、5月9日分。 晴れ。
連休から続くとても気持ちのよい天気。

家からファームに向かう途中の
両側に田んぼが広がる長い直線の国道からの眺めは
遠くをもこもこと優しい山容の低山に囲まれ、
(そのうち一角は頂部をすぱっと切り取られて建て売り住宅が
ぎっしり乗っかっている、仙台らしい風景を形成している)
ちょっと奈良盆地を思い出させるようで、
それが一昨日の雨ですっかり澄みわたって、
もう半分ほど水が張られた田んぼにも映りこんでいる。

その田んぼにはあちこち人がかたまって、
田植えのために忙しそうに立ち働いたり、
ちょっと休憩したりしている。

春になると待ったなしで忙しくなるのは、
虫も動物も人も同じだ。

さあ、うちも今日は大忙しだ!

連休中にすでに「うちの田んぼでイノシシの跡を見た」と
アカギさんに報告を受けていたし、スズメバチは小屋の
軒下にひっきりなしに斥候を送り込んできている。
(巣をかける場所を探しているのだ。今年はスズメバチの活動が活発化しそう)
天候不順で生育が遅れていたジャガイモの芽欠きもそろそろ出来そうだし、
にんじんの種まきも今日が良さそうだ。

イノシシよけには網をぐるりと張りめぐらしておけばよいのだが
(臆病な彼らは鼻面に少しでも当たるものがあると入ってこない)
畑の境界のうち小屋側の、今後も境界線が変化しない部分を
余っている杉の荒板を使って牧場のように木の柵で囲い、
そのうち一部を切り取って畑への門を作ることにした。

畑の門を作るのは以前からやりたかったことで、
それは何か境界を明確にしたいためではなくて、
それによってこの土地へのとっかかり、つまり
人心地をつかせ、また、なつかしいものにもするような、
そんな「マーキング」をしたかったからである。

山の中に踏み込んだりして人里を離れたときに
丸木橋であったり、 ちょっとした主に木製の人工物を
目にするときの「なつかしさ」に僕は
心を奪われてうっとりと立ちすくんでしまうようなところがあって、

それもあってか、その場所と「仲良く」するために
そういう「目の取っ手」みたいなものを配置する必要を
はっきりと意識しているのだが、

この「なつかしさ」については、今でもはっきり憶えている
原型的な体験があって、それは北海道の千歳郊外に
(というか「原野」といった方がよいような場所だったのだが)
住んでいた(というのは幼児に使う動詞としてはそぐわないが)
幼稚園のころのことだ。

雪はなかったので冬ではなかったことは確かなのだが、
白樺が中心の林の下草が旺盛に茂っていたことからすれば
夏かそれに近い春だったのだと思う晴れた日に
友達数人とかき分けていったその林の奥で、
水底に白くて細かい砂を敷き詰めた泉に行き当たり、
その泉には、北海道の当時の木造構築物にはよく見られたのだけれど
なにも表面に塗っていない荒板が腐らずそのまま古びたような
ほんのり緑の入ったグレーといった色あいの
木の小さな桟橋がかかっていたのだった。

まあそんなことを力説されても困るとは思うのだがw
それでもこういうとっかかりを置くことが
「自然」と仲良くするための方法論のうち
もっとも基本的なものなのではないかと思っていて、

吉田健一の『金沢』の主人公が、金沢の家とその庭を
廃墟になって崩れかかるぎりぎりにところで
わざわざ「しつらえさせ」たのも同じことだったんではないか。

とはいえ実際の作業はそんな優雅なものではなくて、
どっちかというと中上健次的な「土くれ」相手の
土方作業なのはもちろんなのだが、

IMG_1706

門柱と柵の柱を立てた時点で、既に「思惑通り!」なのだった。

手前の焼き杭はバラを這わすために3月に立てたもの。
むこうの背の高い焼き杭は山形の朝日村から送ってもらった
やまぶどう(5月に入って旺盛に芽を吹き出している)の
棚を張るために今日打ったもの。

門柱の質感が
「表面に塗っていない荒板が腐らずそのまま古びたよう」
になっているがこれは、ウッドロングエコ
(という商品名はどうにかして欲しいとおもうのだが)
という表面保護材によるもの。

まあその効能はこれから検証していくのだが、
なにより、この質感がすばらしいというか、
こういう環境にはとても似つかわしいと思って気に入っている。
(例えばキシラデコール(界隈の人は「キシラデ」とよぶw)
みたいなのは表面がてらてらしてしまってどうもよくない)

ここで気づいたのだが、
柵を張り巡らすってだけのことを言うために、
幼少の頃の記憶なんてものにまでさかのぼったりなんかしてるから
日誌がぜんぜん追いつかないんじゃないか!

野良

Posted by Takuro