スカーレット・ヨハンソン、プリテンダーズを歌う

ちょっと前の話になるのだけど、
おっさんと若い女の恋の顛末を描いた
映画を立て続けに見ることになって、

そのうち『スローガン』のことはすでに書いたけど、
もう一本の方が、ソフィア・コッポラの
『ロスト・イン・トランスレーション』。

話としては、アメリカから日本に来て、それぞれの事情で
「ロスト」してしまった二人が出会い淡い恋に落ちる
というたあいもないものなんだけど、

その「ロスト感」を際立たせるために、
日本人による日本語会話部分には英語字幕が
つかないのだそうな。

それでちょっと思い出したのが
ロラン・バルトの『表徴の帝国 』で、

この本に書かれることになる日本滞在の中でバルトは
「一つの異邦の(奇妙な)言語を知って、しかもそれを
理解しないでいること(文庫版p15)」に徹しようとし、というか、
それが出来るまたとない機会として「翻訳不可能なものの
なかにおりてゆき、その翻訳不可能なものの与える衝撃を決して
沈めようとはせずに味わいつく(同)」す。
(「理解」などしようとしないところが「旅の態度」として
実にセンスがよいと思うのだけど)

そのおかげで、当の「異邦の言語」のみならずエクリチュール全般の
運用者である日本人読者が僥倖として受け取ることになる特権的な豊かさ、

というところまではさすがにいかないけれど、
「日本語わからんかったらもっと笑えたんだろうけどなぁ」
という程度のことはこの映画からも感じもしたし、いずれにせよ
その中で「ロスト」できることがプロットとして説得力をもつような
無邪気な「エキゾチシズム」が成立するほどの
「商品価値」をまだ我が国は有しているのだなぁ
ということにかるく驚いたのではあった。

まあそれはともかく、
ビル・マーレイ演ずるところのおっさんと、
スカーレット・ヨハンソン演ずるところの若い女が
(ちなみに、このDVDはみぃこが『それでも恋するバルセロナ』の
ペネロペじゃないほうが出てる!というんで借りてきた)

(それが藤原ヒロシだったりHIROMIXだったり
というあたりがいかにも「ガーリー」な)「日本の友人たち」と
連れだってカラオケに出かけて、それで二人が歌ったのが
エルヴィス・コステロと プリテンダーズだったことは、

まあ「理解」しようとすれば
「東海岸の大学を出てすぐ結婚したダンナとその周辺の西海岸的なアホっぽさに
知的欲求不満を抱く若い女とそれに応えることの出来る知性とユーモアを
備えた中年男がカラオケで歌う曲」ということになると、
コステロとプリテンダーズってことになっちゃうんだな(なの?)
ということになるんだろうと思し、
(このへんのことは町山智浩氏とか長谷川町蔵氏に聞けば即答なんだろうけど・・)

実際、『あの頃ペニーレインと』でのThe Whoに見られるような
ある層のアメリカ白人にとってイギリスのポップミュージックが
果たしている役割というのは確かに理解するに値することだとはおもうのだが、

それよりもまあ、
日本語を解するだけに「ロスト」は出来ないこの映画の中で
「翻訳不可能」というほどではないものの、
我々にとってある意味唯一の「見どころ」として、
スカーレット・ヨハンソンが『Bress in pocket』を歌う、
という、プロットとしても当人の趣味だとしても「なんだかよくわからない」
へんなシーンを、それはそれとして「楽しんで」おけばよいのだろう。


“ロスト・イン・トランスレーション [DVD]" (ソフィア・コッポラ)

日日雑記

Posted by Takuro