遠方から彼岸を知らせる

予備校からの友人ヒガシさんが
並の勢力を保ったまま
現在、福島あたりを北上中です。

先週の土曜日に東京を発って、
徒歩で仙台まで、

1日50キロ歩くとして、
仙台まで7日とちょっとの行程。

学生の夏休みかっつの。

しかし、
こんなにじわじわと訪れられたことはないので
(まあ普通ないと思うが)
まさに台風がやってくるのを待つような
なんだかへんなかんじだ。

白河の関を越えたと連絡があったときは、
なんだかちょっと征伐されちゃいそうな
ドキドキ感さえあった。

ひとくちに7日っていうけど、
新幹線なら1時間半の距離が
人力だと7日の距離になっちゃうんだから

僕たちの時空に対する感覚が
昔とはいかにかけ離れているかってことだ。

それは単に狭いとか広いとか
速いとか遅いとかの感覚のことじゃなくて、
たぶん「価値」に対する感覚が
全然ちがったろうな、ってことでもある。

「資本主義」を否定するとき
じゃあ貨幣以外のどんなもので
価値をはかるのか、って実は
考えてみたことなかった。

どこかで、価値を計る貨幣以外の別の
単一のスケールを想定しちゃっていた。
(要するに結局「貨幣」だ)

資本以前の価値、それは、
肉体的な負荷、というか人力的な
単位だったのかもしれないな。

いや、単位というか
価値そのもの=体感だったろう。
自分を外部から眺めるなんてこと
しなくてもよかったろう。

価値そのもの、かぁ・・
すばらしい官能の世界であったろうな。

しかしそれらの感覚は
tip of tongueというか、
実感されかけてするりと逃げていく。

我々は本当に「貨幣以前の身体」に
戻れるだろうか。

オングが体感させてくれた
「文字以前の身体」の不可能性に照らせば

やっぱり、

もうそれは無理なのかもしれない。


“声の文化と文字の文化" (ウォルター・J. オング, 林 正寛, 糟谷 啓介, 桜井 直文, Walter J. Ong)

日日雑記

Posted by Takuro