一日一行

連休の始めにコバヤシさんが来仙くださり、書き物をしながらの旅の途中にお寄りになると聞いていたのが、別の予定で仙台止まりで帰らざるを得なくなった由、温泉宿でカンヅメになる話を聞きたかった私としても残念だったので、桜を追って、水沢の火防祭の見物、将来のカンヅメ旅行の下見を兼ねて大沢温泉、帰り道に雪解けで増水した北上川の流れ沿いに桜並木が九分咲きになろうとしている北上展勝地にお連れしたのだが、その途中何度か携帯電話を取り出してメールをチェックされているようだったので、締切ものも大変だなぁ、くらいに思っていたのだった。

それが、携帯電話からミクシに日記をアップロードしてるんですよ、という話から、1日1行でもいいじゃないですか仙台日記でもいかがですか、ということになり、それで、今こうして、昨年12月に十数回目の一念発起でニュージーランド出張報告を書いたものの結局Picasaとの連携がうまくいったことを確認しただけでほったらかしになっていたBloggerのIDを掘り起こして書いている、というわけである。

一日一行って、なんだか一日一本とか一日十分とかの健康維持みたいだなぁ、と思いつつ、こうやって書くことは実際に千々に乱れる日々をちょっとでも落ち着いたものにする臨床的効果があることは自覚していて、それで方々に書いちゃほったらかしということを繰り返しているのだが、メールにしてもまだ手紙の感覚があって軽くかけないくらいなので、一日一行の心構えで始めてすでにこの長さである。

しかしこうしてシーンと息を詰めて(ブログなんてものに対してでさえこれだ)、気がついたら時間がたっていて、(実を言うと結構うっとりと書いたものを読み返しつつ)心地よさとは無縁の芯に残るような疲れを感じる時が嫌いではない、というより好きである、というか癒されるとさえ言っていいかもしれない。商売にする野心はないしもちろんそんな大層なものを書いているわけでもないけど、明日の仕事を気にせずに書いていられたらいいのに、とは正直最近思うこともあるので、だから今回は少しは続くかもしれないとも思ったりもするのだが、我ながら継続することに関してはまったく期待が持てない。

しかし、私の場合こうして書いている、というかPCを使っているので、こうしてキーをたたいている感覚というのは、鉄釘かなんかでゴギゴギとアスファルトに文字を書くのとおんなじで、なにか「労力」というものがかかってしまうのである(そのくせ書いてしまえばもうどうでもいいのである。だから方々のCMSに書いたことさえ忘れた「日記」が残されていて、そんなことも続ければそれはそれで結構面白いかと思ったりするくらいである)。まあ僭越な話ではあるのだが、それでいつもなにか近しいものを感じてしまうのが武田百合子の書いたもので、「軽い読み物」というニュアンスをもつことばで形容されることの多い武田百合子はしかしきっと、原稿用紙に向かってゴリゴリと書いたに違いないなく、そこから感じられる質量のようなものに、元気のないときはちょっと読めないな、と思うことさえあるくらいなのである。

日日雑記

Posted by Takuro