肉を切らせて

2012/01/25

テレビは映画とごく限られた特定の番組以外
ほとんどみないけれど、チャンネルをかえるときの
通りすがりの印象は、ひな壇に芸人がたくさんならんでいるか、
そうでなければ世界遺産、である。

これほど大騒ぎしているのは日本だけなのかもしれないが
それでも世界遺産を行き交う観光客の顔ぶれをみると
本来の主旨とは別に「世界遺産」は消費のための
「世界通貨」でしかないのではないかと思えてくる。

ところで京都はもちろん世界遺産に登録されているのだが、
その登録のされ方はちょっと微妙で、「古都京都の文化財」という
タイトルで、つまりエリアとしてではなく、
点在する島のような文化財群として登録されている。

このことは見方によってはゆゆしき問題ということでもあって、
例えばアレックス・カーのようにアメリカの配慮により
せっかく戦災を逃れた京都の美しい町並みをなぜ自ら壊してしまったのか
おまえらアホちゃうか、と激しく憤る人もでてくるわけであるし、
実際僕自身、かなーりベタではありますが東山魁夷の『年暮る』的な
雪降り積む京都の屋根瓦の下で火鉢にあたりながら一杯やれたら、というのは
ファンタジーとしては全くもって否定しがたい。

でもかりに『年暮る』な町並みが残っていたとして
世界遺産にも当然登録されるであろうその町並みと「その外側」を
分ける境界はいったいどこにあることになるのだろうかと考えると
(歴史的現実としては京都以外のエリアはほとんど
焼け野原だったのだろうから明々白々ということだったのだろうが)

遺産として保存された町並みの外側がハイテクでペラペラなのだとしたら
いかに歴史的に醸成されてきたものであろうとくくられて保存された
「内側」のありようはTDRやハウステンボスと変わらない。

まあたしかに戦災を逃れ、ほんの少し前まであの『年暮る(1968年作)』の
屋根瓦の海が残っていたのだと思うと残念ではあるが、それは京都だけが
残念なのではなく、そもそも日本からして世界からして残念なのである。

その意味では、やすやすとはグローバルな観光マーケットに飲み込まれてはしまわない
(肉を切らせてではないけど、いくつかの歴史建造物やエリアを渡して
「暮らし」を守ったとも言えるわけで)
京都のしたたかさはさすが千年以上の歴史ゆえと言わざるを得ないし、
仏さまにも会えた上、百練でご飯だってたべられるし、タバンシンプソンで
お酒だってのめる京都は今でもとってもいいかんじだ。

エスキス

Posted by Takuro