卒業おめでとう
地震から半月以上がたちました。
「半月」と書いてみて改めてびっくりしてしまうほど
振り返れば長く感じられる日々で、先月までみんなと実験したり
議論していた日々がとても遠くに感じられます。
今日で皆さんは大学生、大学院生ではなくなります。
明日からそれぞれの道を歩み始める君たちに贈る言葉を
ほんとうはそれぞれに直接伝えたかったけれど、
それもかなわなかったので、
そのかわり、ここに書き記しておきます。
別にたいそうなことは言えませんけど。
大学生、大学院生最後の一日をみんなは
それぞれの状況の中で過ごしていると思う。
その中で感じている「思い」もまたそれぞれで、
置かれた状況と関係あることもあるし
関係ないこともあるだろう。
状況に心を痛めつつも、明日からの日々に
言いようのない開放感とワクワク感を
感じてしまうということもあるかもしれない。
あるいは逆に、大きな状況とはあまり関係のないとても個人的な焦燥や
不安が胸をよぎってしまうということもあるかもしれない。
もちろん状況と真っ向から向き合って戦っている人もいるだろう。
また、状況のあまりの大きさに、明日から社会人になることが
全然ピンとこないということがあっても、それもムリのないことだと思う。
そして、思いはこれらのうちどれか一つ、ということもまたないはずだ。
一人の中の思いもまた様々であるだろう。
そういう様々な「思い」を僕は全肯定したい。
それでいいんだよ、と言いたい。
なぜこんな当たり前みたいなことを言い出したかというと、
明日からの日々の中で、人の尻馬に乗って他人の行動や言葉を
あるいはまだ言葉にならないような様々な思いを抑圧するような
(今ならさしずめ「不謹慎だ」というような・・)
人や言葉に出くわしてしまうことがあるかもしれないと思ったからだ。
僕は、カヤケンには無思慮に「不謹慎だ」などと言って
正義の名の下に他の人を抑圧するような人はいないことはよく知っている。
(別にいてもかまわないわけだが)
ただ、そんな人に出くわしてしまって、そんな言葉を投げつけられたとき
僕らはどうしたらよいのだろう?
戦う必要は必ずしもないと思う。
時には「大人」にならなきゃいけない場面もあるから、
ちょっとまじめな顔をしてみせなければならないこともあるだろう。
でも「なんだかな」と言ってみるでも
肩をそびやかすでも、Tweetするでもなんでもいい、
違和感とそのおおもとにあるそれぞれの「思い」に
居場所を与え続けてほしいのだ。
これは決して私小説のような「個人的なこと」の中に
とどまれ、ということを言っているのではない。
それに、状況の中で自分の中の小さな声に
耳をすましてそれに従うことは、それほど簡単なことでもないだろう。
(何も考えずに「状況」に乗っかるほうがずっと楽チンだ)
だけど、それぞれの中の「思い」に
それぞれが居場所を作ることができなければ、
そして、そこから始めることができなければ、
また元の木阿弥だ、という気がしている。
それに、地震で地面以上にがらがらと崩れてしまった
私たちの「足下」を私たちそれぞれの思い以外のどこから
また踏み固めていったらいいだろう?
もし「思い」以外のところからもってくることができたとして、
私たちのそれほど長くはない人生にとってそれにどんな意味があるだろう?
「思い」という言葉がここで適切なのかどうかは分からないが、
だから、それはみんなの中にあり、
志(こころざし)の種になるようなもののことだ。
その意味では、僕も実をいうと
(大人として情けないことだが)
みんなとそれほど立ち位置は変わらない。
僕の足下だってぐらぐらだ。
みんな、どうか焦らずゆっくりと
自分の中の声に耳をすませて
(ということはつまり、楽をせずに)
それぞれの足下をしっかりと踏み固めていってください。
仲間たちと(これまでと同じように)楽しく語り合いながら。
そして、いつか踏み固められたしっかりした足下から
後輩たちに子供たち、愛する人たちに、
そして自分を必要としている人たちに
手をさしのべられるような
ほんものの大人になろうではないか。
がんばろう。
卒業ほんとうにおめでとう。
茅原拓朗