『楢山節考』
何度読んでも清々しい表題「楢山節考」
今日の読売新聞の「編集手帳」では、
盆にあたってという趣旨だと思うが、
この1年起こった「理不尽な死」に触れていた。
ほとんどみんな忘れているが、
(僕だって忘れそうになるが、)
盆は本来あの世の霊がこの世に帰ってくるという季節なので、
(だからこそ家族みんなで先祖の霊を迎えよう、
という主旨で里帰りするわけだ)
それに、ちょうどこの季節は終戦記念や原爆忌も重なるので、
やはり僕にとっても死を想う季節ではあるのだ。
でも「理不尽な死」とはなんだろう?
というか「理不尽じゃない死」として
何が想定されているのだろうか?
それはたぶん「天寿を全うする」死、
つまり老衰だろう。その読売の記事に限らず、
通常あるべき死=老衰、という通念は
特に吟味されることもなくかなり広く
行き渡っていると言っていいだろう。
でもその前提はちょっとおかしい。
だって、老衰で死ぬ割合は、平成18年度統計で
全死因中たった2.6%なのだ(厚生労働省)。
統計的センスあふれる僕の研究室の
学生諸君のような人たちなら
「老齢の人たちだけの死亡割合を見てみないと
それは結論づけられないよ」と指摘するだろう。
スルドイ(笑)
だが、老衰がそのほかの死因をぬいて1位になるのは
ようやく100歳を超えてから(約20%)であり、
90歳代に至るまで日本人成人の多くは、ガンか心疾患か
脳血管疾患で死ぬ(全年齢階級あわせて約60%)。
僕がおかしいとおもうのは、
そのような大多数をしめる死の有り様を
死のスタンダード、つまり
「理不尽でない死」としないで、
死のありようとしてはごくごく少数派の
老衰を死のスタンダードとしてしまっていることだ。
僕は実態に合わないこの「老衰至上主義」が、
我々の社会にとても深い弊害をもたらしていると思っている。
まあ語り出すと大変なのでメモ的に2点だけ。
一つは、狭量で偏向した価値感を生んでしまっていることである。
もう一つは、大多数をしめるガンや心疾患や脳血管疾患による
死の扱い方を間違ってしまうことである。
後者についてちょっとだけ書くと、これらの病気の死について
医学はそれに見合った「死モデル」をもっておらず、そこでも
やはり「死=老衰(生物学的な機能停止)」なのである。
だから、最末期のガン患者にモルヒネを投与するなんてことが
平気で行われてしまう。モルヒネを麻酔薬か痛み止め程度の
イメージでとらえている人が多いけど、とんでもない話で、
ごく簡単に言えば我々人間にとって最も重要な脳の部分を
破壊して意識を混濁させることで痛みを「止める」薬なので、
(それって止めるってことなのか?)
ラカン言うところの「象徴界」に生きる人間にとって
これほど「理不尽な生」もないのだ。
念のために言うけど、単純に所謂「尊厳死」に賛成だという
ことが言いたいわけではない(尊厳死って言い方は
結局老衰至上主義と根っこは同じ)。
ただ、老衰至上主義で思考停止している限り、
「病による死」をきちんと位置づけることはいつまで
たってもできないだろう。
(病による死については、
“ニーチェ (ちくま学芸文庫)" (ジル ドゥルーズ)で
言及されている「健康」の概念がヒントになるだろう)
自分のことだからね。ガンになったとき
ロクスケに背負われて山に捨てられる選択肢も
やっぱほしいんだよなぁ。
そして、この作品は、
「理不尽じゃない死」がどんなものかについて
とても重要なことを気づかせてくれる。
それは、死んだ者がまあ死んでもいっか、って
思えていたかどうかということである。
(それも特に残された者への「気遣い」
あるいは一種の死の演出として)
残されたものが死んだ者の無念を想わざるを得ないとき、
その死は死因がなんであれ「理不尽な死」となる。
これは確かなことである。
そして、死因なんかよりむしろ
人間の死が理不尽であったかどうかを考える上では
重要なことである。
あの人は、あの人の生に満足して山に送られていった、
と思えることが、財産なんかよりどんなにか
残されたものに心の安らぎを与え、また
一族の安寧をもたらすか、考えてみるべきなのだ。
しかしいずれにしたって、
多くの場合は訳も分からず死んでいくのだ。
残された者も、死はよくわからないままだ。
よく、幼子の死んだ人にたいする無邪気な発言
(「おとーさんはどこへいっちゃったの?」みたいな)
にたいして、「何にもわかってないのね」と
大人が涙する、という場面があって、メロドラマ的
クリシェとして嫌いじゃないけど、でも
本当の意味で何も分かってないのねと言って
泣ける大人など一人もいない。
どこまでいっても死と単なる不在の違いは
はっきりせず、ピンとこないままだ。
所収の名作「東京のプリンスたち」、
「白鳥の死」についても触れたいけど
これはまたいずれ。