霊長類
5月19日。金曜日。天気覚えてない。早まくりで仕事して、このあときっと会うだろうから仕上げない訳にいかないオガワさんからお題をいただいた原稿も仕上げてメールして、家に車をおいて、イソイソとでかける。メディアテークでは今年から月例上映会という催しが始まって、先月はロシアのドキュメンタリー監督、セミョーン・アラノヴィッチの特集(『天と地の間の人々』での飛行機の肉体性が素晴らしかった)、今月がやはりドキュメンタリー監督のフレデリック・ワイズマンの特集で、なぜこんなラインナップになったかというとなみおか映画祭が援助していた浪岡町の合併先である青森市の無知と怠惰によりなくなってしまい、なみおか映画祭は志の高いことに自前のフィルムアーカイヴを持っていたので、それらのフィルムの上映権が切れるまえの最後の舞台というか、フィルムアーカイヴの「追悼」特集なのであった。
『霊長類』は、米国のある霊長類研究所のドキュメントであり、ワイズマンも珍しく被写体に肩入れしているかのように撮られていることもあって、見ていると、動物実験はほんとに酷いと思うし、脳科学はほ乳類に対する動物実験にも支えられているから正直もうやってらんないなという気持ちにも本当になってしまうのだが、猿をモノのように扱うのを延々映したフラットな(といってもワイズマンにしてはこの作品は起伏があるが)映像をずうっと見ていると、私たちだってマカク系の猿の頭蓋をペンチで迷いなくバリバリとはがしていくのと同じ手つきに扱われていることに、つまりこの世界では私たち自身の身体も動物実験を成立させ必要としているものに対して特権的ではあり得ないのだということが具体的に理解され、それはむしろ気持ちのよい体験なのである。
それにしても、欧米の、とくくっていいかは分からないのだが、研究所の研究員たちの身振りに「弔い」は微塵も感じられず、やはり彼らにとって人間以外は皆単なるモノなのであろう、クリス・マルケルの、タイトルは忘れちゃったんだけどその中で日本も描いている繊細なドキュメンタリーのなかで、道具やモノを弔う「塚」の存在に驚きをもって興味が向けられていたことを思い出した。