少年裁判所
『霊長類』を見終わって、エレベータに乗って、歩道を歩くところまで、スタジオシアターに居たうちの2人の人たちとなんか連れ立つような間合いになってしまってお互いちょっと歩きにくい思いをしていんだけど、小腹が減ったので久しぶりにブタドンでもと思って向かった松屋によりにもよってその2人(彼らもお互いをしらない)も入っていくのでさすがにどうしようかと思ったがやっぱり ブタドンにこれでもかと紅ショウガを載せて食べたかったので、2人のあとから店に入って券売機に並ぶと、前の2人の背中が少しびくっとして、一番前からカレー、ゴボウブタドン、ブタドンと券を買って、長いカウンタに均等に散らばって、食べ始める。
食べ終わって再びスタジオシアターに向かうと、映画がかかるときはチケットカウンターのところにいつも立っていて「どもー」「お疲れっす」と挨拶しあうオオムラさんが「オガワが原稿のことで」というので、ついていって映写室の前を通り過ぎたドンツキの隠し扉みたいなところからオフィスに入るとオガワさんがちょうど向こうからこっちに歩いてくるところで、締切すぎてから3回も大幅に改稿してしまったことがちょっと気になってたのでこっちのほうから、校正のたび改稿しちゃってすみませんでも今のバージョンが一番お題にかなっていると思う、というと今回のバージョンがよいと思う、特に最後のところはほんとにそうだなとおもってググッときました、と言ってくださり、誤字を修正したら翻訳に回します、というのでほっとした。
『少年裁判所』は社会システムの現れに社会人類学的なというより社会見学的な視線をじろじろ向けた、ワイズマンらしいドキュメンタリー。『霊長類』もワイズマン作品の中の例外として面白かったんだけど、やっぱりこっちのほうが面白い。いろいろなものをじろじろと見ていたいのに、それはやっぱり不躾というものだし、社会生活上もいろいろはばかられるので、なかなかどうも、という人間には映画というのは便利なもので、暗いところで一方的にじろじろと不躾な視線を向けながら「ははあ、なるほどねえ」などと言っていられる。また、そう言う人間にとってワイズマンの作品ほど楽しいものはなく、眠くなるという人もいるけど、僕は全然そうならない。
被告である少年少女たちが十把一絡げに並べられた法廷の中で(他の被告たちも同席するなかで審理が進むのである)、検察の言い分、弁護士の言い分、家族の言い分、被害者の言い分、証人の言い分、被告の言い分、判例が調停されて裁定が下されるのをじろじろと見ていると、突然、裁判所の交換台のシーンに変わって、さっきのケースの裁定がどう下されたのか、被告の少年はどうなってしまうのか、それきりわからない。ドキュメンタリーをドキュメンタリーたらしめているのは、このように個々のシークエンスがどこにも着地しない、ということにあるのかもしれない。並のドキュメンタリーはシークエンスが「監督の主張」というまあある意味身勝手なものに寄与すべくむりやり着地させられていくがワイズマンはそれをしない。それで浮かび上がるのは世界に対するフィルムの有限性ということであり、確かに世界が切り取られているという感覚なのである。
裁判所は最も多様に感情が生起する場所の一つだろう、というアイデア。