ココロここにあらせるもの
18日、木曜日。天気忘れた。トキさんが、展覧会前で忙しいけど制作しているとやっぱり充実して落ち着く、ということを話していたので、ああそうだ、そういや実験してなかったわしばらく、ということに気づいて、それだけでなんだか落ち着いてしまう。おまえは何者かと問われると、うーむ、と考えてしまうのだが、 でもとりあえず実験すれば落ち着く、ということは言える。これは仕事に対する内的な必然性なんてものとは全然関係なくて、単にそのような習慣が形成されるこれまでというものがあったというにすぎないのだが、それもやっぱり一つの必然性ではある。あとは、本を読むこと、映画を見ることも、本来過ごすべき時間、という感じがして落ち着く。あと、書くことも。このウェブログも一応日記っぽい体裁になっているので日付とのずれが大きくなるのに意味もなくアセりつつ、誰に読んでもらおうと思うでもなく、でもこんなところに書くからには誰かに読んでもらうことを前提に、自分でも意外な(ってこんな文章書いてて意外もないもんだけど)パラノイアックさで続けている。人の行いがいかに自己目的化しやすいか、とうことでもあろう。
漆作業の身体的表徴は、かぶれとじーんとした軽いしびれなんだそうだ(漆のかぶれは蕁麻疹と同じ神経性のものらしく、触れたところに加え全然触れていないところまで、ここのときはべつのここにもというように、ある規則性をもってかぶれるらしい)。それに手が職人の手というか仕事をする手に変わって、「やっとるなぁ」という感じになるらしいのである。一方、僕が仕事の一つの手段としているタイプの実験は実験者自身を実験台にしてパラメータのチューニングをするので、特にその実験が行けるかどうかアタリをつける段階では、暗室や防音室に一日中こもりっぱなしなんてことはザラで、その間ずっと映像を見続けたり、音を聴き続けたりするので、腰は痛いし、肩はこるし、それにすごく偏った疲労で目の奥や頭の芯がズーンと重くなって、身体的に現れる仕事の特徴としてはまったく「絵にならない」のだが、それでも、シーンと固まったように実験機械と化して昼も夜もなくずうっと続けてしまいそうになるのをブツっと切り上げて真夜中の生ぬるい風に吹かれながらヨロヨロと家路につくときの気分は、実はそんなに悪くなかったりもする。