学校的な

火曜日、雨。もろもろスタックしまくってるのに、グラントプロポーザルで座礁したままなかなか抜け出せない。今日の逃避先は、研究室にあった『知のモラル』。蓮實重彦の、谷崎潤一郎の独白(「戦争とはかくも美しきもの哉」)から考える「特殊-一般、独自-普遍」論。森政稔の、教師による生徒の陰惨な殺人事件に取材した「学校的な」ものを徹底的に批判する(それができていないから暴力を体罰の名において許容しようとする言説を含む、学校が社会に向かって閉じ自己目的化することを許容する言説が生き延びる、というのが森氏の問題意識)ための言説を準備する試み。

学校を巡る陰惨な事件のそれが一つの引き金になることが多いのだが、いやがる子供をその理由を理解しようともせずに無理矢理学校に通わせようとする親の硬直ぶり、というのが僕は全く理解できない。それしか知らないんだから当然「学校が世界の全て」になってしまう子供が「世界」から傷つけられたら、学校の「その後」を知っている親が笑って「世界」を相対化して見せずにどうするんだろう。それが「学校的な」ものの弊害の本質かもしれないのだが、結局の所、閉塞して自己目的化した学校(そこにあるのは社会に出たらナンセンスなものばかりだ)は十数年かけて子供たちを市民としての開かれた思考と身の振る舞いから遠ざけ、それを知らずに「大人」になった彼らは様々な閉じて自己目的化した集団(最たるものはカゾク、とかねぇ。救いがないな)を形成し、あるいはそれらにとりこまれ、閉じた思考と振る舞いを温存し続ける、ということなのだろう。

日日雑記

Posted by Takuro