どうなる?どうする?
節目節目で私たちはつい
「今年はどんな年になるんだろう?」とか、
「これからどうなっちゃうんだろう?」とかの
受け身の形で展望してしまうのだけど、
「どうなる?」から「どうする?」へ
まずワーディングから変えてかなきゃだめだよね、
と橋本治が書いていたのを読んで
なるほどそりゃそうだよなぁと思ったのは
確か大学生のころで以来少なくともワーディングだけは
けっこう真に受けてここまで過ごしてきたのではある。
でも、正月早々から深夜のNHKの特番で
過去の津波の痕跡を探ると東南海あるいは北海道東部の
複合地震が起きるのは時間の問題、などと言っているのを
聴くはめになると、もちろん震災を身近に体験したことが
基調としてはあるのだが、
やれやれ、どうなっちまうのかねぇ
と嘆息するのがまあ気分的にはピッタリというものだし、
「どうなる?」という私たちの受け身のワーディングの根深さ
というものに気づかされもする。
でもまあ僕が生まれてからも激甚災害はいくらでも
あったわけなので、いまさら「どうなる?」の根深さに気づくというのも
一方では僕がいかに鈍感で「共感力」に欠ける人間であるかという
ことでもあろうし、もう一方では僕が住んできたエリア(主に首都圏)が
受け身にならざるを得ないような天変地異からいかに遠ざけられていたか、
ということでもあり、それはつまり、(いつからかは知らないけれど)
「どうなる?」って受け身でしか語ってこなかったということに
気づけるだけの猶予が与えられていた、ということでもあったのだろう。