機内雑感
ちょうど機内で読んだ新聞で「ボーイング社、機内インターネットサービスから撤退」という記事を読んだので、じゃあ終わる前にいっちょ使ってみっか、ということでこうして書いてみている訳である。ちょうどオホーツク海からロシアのくすんだ大地にさしかかったところ。海岸線が見える。機内インターネットサービスは定着すると思っていたので少し意外なのだが、飯を食わせる、音楽を聴かせる、映画を見させる、TVゲームをやらせる、寝かしつける、という、乗客の気をまぎらわせるためのあの手この手の手段でもう充分だったということなのだろう。
出張中、ミィコとロクは実家へ。今頃ちょうど新幹線に乗っているところ。「しんかんせん、あしたね。みんなでね。おとーさんと、おかーさんと、ろくちゃんと」と昨日から興奮していたロクに、「おとーさんはおしごと。ひこうきにのるんだよ」といわねばならないのがとても悲しかったので、スカイプアウトで新幹線車内のロクとおしゃべりもできたんだなぁと思うと、このラップトップにマイクがついてないのが恨めしい。ヘッドセットをもってくりゃよかった。
少し前からロクは思い出を語るのである。なんらかのトリガーさえあれば何時でも表出されるので、「思い出を語る」というTPOをわきまえた行為であるというよりは、夢うつつ、というか、ようするに過去と現在がごっちゃになった状態、というのがより近いのだが、しかし、現在についての表象も、過去についての表象(記憶)も、どちらもひとしく脳の「現在の状態」なのであるということを考えれば、ロクの「思い出」のありようは実に正しく、この混沌とした感じは悪いかんじはしないのである。大人は時間の観念を導入することで「思い出」を思い出として整理して、というか、整理しすぎてしまう。つまらないことである。脳に(脳でなくともよいのだが、とにかく人間の情報処理系に独立したストレージはないということを考えれば夢かうつつかというのが本来の人間精神のありようとしては正しくかつ楽しいのである。
というわけで、むしろ生成として「思い出」が繰り出されるのを、親としては何度でもよろこばしく「そーかそーか、よかったな」と聞いてしまう。昨日は、実に記念すべきロクスケの映画館デビューの日だったのだが、家に帰ってからも何かのきっかけでしきりに「おもしろかったね」「こーんなの(といいながら両腕でおおきく四角をなぞる。スクリーンのことである)、ね」「びゅーって(なにかが飛んだところ)、ね」「ばたばたーって(同飛んだところ)、ね」「ぼちゃーんって、ね(何かが水にとびこんだところ。ん?そんなカットあったっけ?)」としきりに語っている。映画を見ている最中、笑ってしまったし、周りをはばかって少々アセったのは、映画の中で蛇がでてきたときに「しんでたね」「しんでたね」と大きな声で得意げに述懐することであった。ミィコかーさんと散歩中に蛇の死骸を観察したことは蛇にまつわる彼の重大なエピソードの一つになっているのである。このことから時間を共有していなければ本来意味をなさない、という思い出の重要な特性も教えられる(そこに、本来そういうものをどう伝えるか、という技術が生まれるわけだ)。インターネットもよいけれど、やはり時空間的制約の中で生きてこその人生だねぇ。なんてことを飛行機の中からインターネットを使って「グローバル」に書いているわけです。
ロクのデビュー戦であるところの「夏休み親子映画大会」は、メディアテーク月例上映会でのロッテ・ライニガー特集。親子で、無料で、しかもロッテ・ライニガーをたっぷりと、見てください、という粋で太っ腹でゴージャスなはからい(オガワさん、ありがとう!)。すこし遅れていったのでオオムラさんにペンライトで誘導されながらいきなり暗いところに入ったのでロクは「やだ、やだ」と最初少し抵抗したが、そのうちミィコかあさんの膝のうえにガマガエルのように寝そべりながら「とんだ」とか「夜だね」とかチャブチャブとコメントを入れながら見始める。まわりでも小さな子供たちがやいのやいの言いながら見ている。こういうのはいいなぁ。夏の映画館というのは、すずしくてくらくて、さあ映画をみるぞーっという気持ちになる。季語にしてもいいんじゃないかと思うくらい、風物詩的な存在である。そのうえこうして(『みつばちのささやき』も少し思い出しつつ)子供たちとおしゃべりしながら見られるのは、夏の出来事としてじつにうれしいことである。ロッテ・ライニガーは言うまでもなくすばらしい。うっとりするような少しまがまがしいような世界の生成の秘密。
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