大キネ3
15日月曜日、大キネ3回目は『ガタカ』について。コバヤシさんから貴重なインタビュー資料も送っていただき、意見がたくさん交わされる。テーマを選んだ当初のねらいの一つでもあったのだが、この作品で提示されている未来イメージについては意見が分かれた。しかし私としては、『アルファビル』方式とも言えるかもしれない「私たちの世界ともつながりつつ何時だからわからない近い未来」の表現は、こと遺伝子がキーとなる作品だけに、こうでなければならなかったと思う。もちろん、私たちの世界と<つながっていない>未来像なんてイメージ出来ようはずもないから、むしろ<日活的無国籍>と同じ、主題や説話的機能に寄与すべく設定された<未来>という手法、というほうがよりふさわしいかもしれない。そしてもちろん、映画における全ての未来は<機能的な未来>なわけだからそれじゃなにも言って無くて、要は「遺伝子を主題とする設定としてはよかったんじゃない?だって、遺伝子による差別問題は技術の未熟さがもたらす<現代の>問題なんだから」ってことだし、っていうか遺伝子がドライブする成長譚というか流離譚というか、そこに「泣けて」しまうってことの方が重要なわけで、泣きのために遺伝子を<運命>として設定するなら、この設定はアリだと思う、ということだけのことである。それにしても、遺伝子がほぼ完全に解明されていることが前提になっていて、実際にそれは操作可能で「最も良い条件での誕生」が技術的に保証されている時代にあって(それはしかし私たちが生きている間には訪れないだろう。バイオインフォマティクスに詳しいわけではないが、遺伝子解析で上がってくるデータはもう一つの<世界>にすぎないのではないか(それを分析しようとして別の表現を持ってきても無限後退するだけ)と思える)、それでもなお「神の子」を求める両親の、差別と同根のエゴは作中でこっぴどく断罪されるべきだったろう。
それに、うーん、なんとなくユマ・サーマン(アイリーン)は居なくてもよかった気がして、あんな関係性の設定の中でよくイーサン・ホーク(ビンセント)と結婚する気になったものだ、と思ったりもするけど、もちろん、それは劇中と現実の混同も甚だしい余計なお世話というものである。
終わった後、職場近くのツタヤに寄ったら、昼間はあった『THX-1138』が借りられていた。参加者の一人が早速借りていったに違いない。コバヤシさん、貴重な資料をありがとうございました。