分かるところから分かればいいんじゃない?

前のエントリーが授業の「牽制」みたいなことになってたら
ちょっとまずかったなーと思って補足のように書くのですが、

「わからない」とか「横文字やタームが多すぎるよ」という
感想をあらかじめ封じようというつもりは全然ないのです。

僕はそれらは感想や印象として当然ありうるものだと思うし、

その意味では、そういう意見を
「そうかー横文字の意味を推測可能にするような 文脈がまだ弱いなー」
とか
「もっと「たとえ」をうまく使えたらなー」
とか、一つ一つくみ取ってできたら授業カイゼンにつなげようとして
あれこれ考えてもいるのです。

(まあ、僕は、
蓮實重彦さんが講演でしばしばそうされてきたように
自己紹介も前置きもせずイキナリ本題に入るのが
オーディエンスを「オトナ扱い」するという意味で正しいよな、
と思ってるくらいですので、見方によってはイケズな
教師であることは間違いないのですが・・)

逆に、「横文字がおおすぎる」とか単に「難しい」とか
苛立ちを行間ににじませながら発せられるクレームに
ちゃんと応えるにはどうしたらいいんだろう?と
考えた結果、これはどうも、授業をどうにかする
ということではなさそうだぞ、という結論に至った、
ということなのです。

それに、1回目と変わらずにいくかもと言った直接の理由は
前エントリーでは言わなかったけど、実は他のほとんどの
履修生が「よーわからんけど、おもしろい!」という、
僕自身この鼎談から何かをつかみたいと思っている
僕としてはとてもありがたい「構え」でいてくれているので、
出来るだけそのような構えに応えたいからだったりもします。

ところで、前エントリー
そういったクレームにどう応えていくかは別途考えている
と言ったけど、「秘策」と言えるようなものは何もなくて、ただ、

「分かるところから分かればいいんじゃない?」

と言ってあげるってのはどうだろうか、と考えている。

「分かる」ということを「情報の解読」ととらえている人の
「分かる観」って本人は気づいていないけど実はパラドクシカルな
もので(ってことはそれで「分かる」ことは現実には不可能で)、

それは古くから「メノンのパラドクス」として知られているのだが、
これを「情報の解読」ということで少し敷衍してみると、

「新しい知識や理解は情報として解読不能なものでなければならない」

ということになり、
(というのも、もし解読可能な情報なら、それは
すでに「知っている」ことだから)

「解読可能な情報をよこせ」と要求する限り、
彼らはいっこうに新しい(未知の)情報を受信することが
できない、ということになってしまう。  

ということで、問題はこの要求そのものではなくて
知識や理解の獲得を「解読」過程と考えてしまうことで
このパラドクスのループに入り込んでしまう、ということなのである。

一方で、私たちは「現に」これまで知らなかったことを理解し、
知識や知恵を増やしていくことが「出来ている」ので、

「分かる」ということは「メノンのパラドクス」的なものではないし、
だから、分かる過程は「情報の解読」なのではきっとなくて、

そして「分かる」と「分からない」との間はきっと
もっと曖昧でどろどろしたものなのである。

(多少なりとも認知科学に関わる人間がこんなボンヤリした
言い方でよいのかとも思うのだがw )

そんなわけで、「分かる」と「分からない」という
きっぱりとした二分法に挟まれてガチガチになっている構え
(それが必然的に「完璧主義」を引き寄せちゃうことも想像に難くない)
をほどくために(それはとても難しいことだけれど)、

「分かるところから分かればいいんじゃない?」

ってとりあえず言ってみるってのはどうだろうか。

日日雑記

Posted by Takuro